水響昔ばなし外伝~あの頃、楽器庫にはドアがなかった~

お初にお目にかかります。わたくし、水響の歩く化石又は生けるアンモナイト又はチェロ弾くシーラカンス
と呼ばれても反論できない、第1回演奏会から一庶民として長らく生き続けている者でございます。
嬉しいことに水響も最近、若者が増え、若い力みなぎる良いオケになっていると思うのですが、
よくよく見ると、私同様にアンモナイト気味の人や若干シーラカンスな人もちらほら混じっていて、その混ざり具合がまた良いのです。

そんな私が最初に書くべきは、やはり、今や知る人も少ない衝撃の、しかし本筋と無関係かつどーでもよい謎の昔ばなしかと思いまして。

あれは、水響誕生のさらに数年前の初夏、当時大学1年生の私が初めて大学オーケストラの部室を訪ねたときのことでした。
初めてチェロの弾き方を教わった私は、弦に弓を置いて横に「ぶん!」と弾くという最初の一歩がなかなかうまくできずに何度もやり直すうち文字通り日が暮れまして、当時4年生の優しいRさんに「もう日が暮れるよ、明日からは自分で楽器出して練習していいからね」と声をかけてもらい、楽器のしまい方や担ぎ方を教わり、さて、然るべき場所に置くべく、「じゃあ、こっち来て」と言われる方へ、好奇心に満ちた気持ちで、散らかった椅子をよけながらついていったのでした。

当時の部室は、今の部室の先々代に当たり、旧・旧部室と呼ばれている、木造平屋の教室を転用したものでした。かつて教室だった空間が合奏をする部屋に、その脇の廊下だったところが楽器庫になっており、元教室と元廊下を仕切る壁には、窓のはまっていない横長四角の窓枠があいていました。
Rさんが慣れた足取りで進む先には、その合奏部屋と楽器庫を画す壁があり、横長四角の窓枠から、向こうの暗がりにチェロがたくさん置いてあるのが見えました。あそこへ置くんだな、ということはわかったのですが、ただ、不思議なことに、その壁にはドアがありませんでした。

窓枠の下に椅子がありました。周囲に散らかっていた、今も部室に受け継がれているあのオレンジっぽい椅子やパイプ椅子とは違う、レトロな昭和の小学校にあったような、しっかりした小さな木の椅子でした。
襲ってくる予感を打ち消す私をよそに、Rさんはその椅子の前まで来て、スカートをはいていた私を振り返り、一瞬、あ、という顔になってから優しい笑顔に戻って、
「じゃあ今日はぼくがやってあげるから、よく見ておぼえてね。明日からはスカートじゃない方がいいね」
と私からチェロを受け取り、「見ててね」と、左足をその椅子に乗せ、私を振り返って「1」と言いました。
次に、右足を大きく振り上げて楽器を持ったまま窓枠をまたいで、「あ、このとき楽器を上にぶつけないように気をつけて」
壁の向こうの線対称の位置にあるらしい椅子に乗せ、振り返って「2」。
そして、左足を向こうの床に着地させて「3」。「ね、わかった?簡単でしょ?」

予感的中の衝撃とRさんのあまりに自然すぎる姿に、とんでもないところへ来てしまった、と、愕然としたのを憶えています。

翌日、意を決してGパンで部室にやってきた私は、まず楽器を持たずに1.2.3、1.2.3と予行演習を繰り返したのち、背水の陣の悲壮感を以て楽器を抱えての窓枠越えに挑戦!どうにか成功の後、ようやく本来の練習に入ることができたのでした。

とっぺんぱらりのぷう

あれから30余年。いろんなことがありましたが、この、ドアがない事態を平然と日常に受け入れる懐の深さや、そんなら窓の下に椅子置けばOK的な柔軟性は、私には、何やらどうも水響っぽい気がするのでして、私にとってはこれが、その何やら水響的なものとの最初の衝撃の「出会い」だったわけでした。今水響にいる皆さんにも、いつかどこかで、こんなふうな(?!)出会いがあったのかな、と想像すると、ちょっと楽しいです。
この数年後に生まれた水響は今や、創立30周年を迎え、50回目の演奏会に向けて、このとき部室にいた人たちとまだ生まれてなかった若者たちとが一緒に練習しているのですよね。何だか愉快で嬉しくて、すごいことですね。

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